事実認識と価値認識

「世の中のすべての存在は、自分が認識しているからこそ存在する。」・・・まあ、

確かに、それは正しい。天上天下唯我独尊、人は自分の認識を超えて何かを認識することは出来ない。自分の認識こそがすべて、それがすべての世界を作っている。それは正しい。

世の中に自分一人なら、それだけで、別に何も問題はないし、それ以上何かを考える必要もないのかもしれない。

でも、世の中には、自分一人という状況は、ない。

自分以外の『他人』(『人』だけでなく、犬でもネコでも)も、自分と同じような認識空間を持っているようだと観察するとき、それを否定する理由が見当たらない。なぜなら、自分が自分の認識を否定することができないのだから、『他人』の同じものも否定できない。それはそれで、彼(彼女・犬・猫)にとっては、天上天下唯我独尊、彼ら等のすべての世界を作っているはずだ。

このそれぞれの認識空間は、どのような関係性を持っているのか?

たとえば、「痛い」という感覚がある。

これは、多くの場合、外部からの痛覚に対する刺激を私たちが評価し認識するものだから、一つの評価認識、つまり価値認識と言える。「切断してしまって無い筈の足の指先が痛い」というような例もあるようで、この場合は、直接的な外部からの刺激によるものではなく、自分自身のどこからか、内部発信による刺激を、痛みとして価値認識するということか。

いずれにしても、この「痛み」という価値認識は、『他人』とは共有できない。

「痛い」というのは、確かに「痛い」。・・・私は知っている・・・あの時の痛み・・・。

しかし、私がどんなに痛がっていても、『他』(私以外の認識空間を持つ者)には、それは、わからない。同様に、他人がどんなに痛がろうが、私にはその痛みは伝わらない。「無痛症」という病もあるようだが、そうでなければ、自分にとっては、絶対的な確かに存在する価値認識が、他人とは共有できないし、他人の絶対的な、確かに存在しているであろう価値認識が、私とは共有できない。

同じカレーを食べる・・・・。5カラとか・・・。

一方で『辛い!』と言って悶絶する者たち。「水・・」

一方で『おいしー』と言って、笑顔になるものたち・・。

同じ刺激に対する反応が、個々においてはそれぞれ違う価値認識になる。

この段階で、一つの重要なことに気付く。

それは、各々の認識は、各々の認識機能内部、つまりは脳内部の空間において独自に存在し、それぞれは独立であって、互いに直接的な干渉できず、互いの認識を共有すること自体が不可能なことだということだ。

人間に限って、70億人がいれば、70億の認識があるということであって、それぞれがユニーク、独自であり、一つとして同じものはない。

だって、70億の人、みんな違う顔してる。

だけど、・・では、人間の認識、すべて異なる・・というだけの結論で終わるのか、というと、どうやらそうではない。

ここにテーブルがある。

観察していると、猫もその存在を知っているようで、その上に何が乗っているのか、覗き込んでみたり、叱られないと思えば、その上に飛び乗ってみたり・・、確かにその存在を認識している。

私も、テーブルがあると認識している。何色のどんな形の物が、どこにあるのかを知っている。もし目が見えなかったとしても、例えば、ヘレン・ケラーさんに、「これは何ですか?」と訪ねれば、指文字で「T・A・B・L・E」もしくは「D・E・S・K」と答えれくれると思うし、色は分からない・・共有できないかもしれないが、形や場所は共有できる。

このテーブルの存在は、「私が認識するからこそ、存在する」という考え方は、最初に言った通り、「まあ、正しい」間違ってはいない。

では、目の前にテーブルがある状態で、一度気を失ってみようか・・。

「私は、テーブルを認識していない。したがって、テーブルは存在していない。」

・・・というわけではない。正しくは、「私は、テーブルを認識していない。したがって、テーブルは存在しているのかどうか、分からない。」・・もちろん、そのことすら認識はしていないのだが・・ということになる。

「存在する」の反対語は、「存在しない」ではなく、「分からない」若しくは「関係ない」になるということだ。認識している時には存在し、認識を失えば「雲散霧消」存在しなくなり、再び認識すればまた存在する・・・というわけではない。

私の世界観において、私の認識が「全て」であっても、それは「私」の中だけでは問題ない。しかし、私の認識は、世の中の何かが存在する理由には何もなっていない。私達の認識は、何も作っていない、受け取っているだけのようだ。

そのように観察する時、自分の認識にかかわらず存在すると仮定しても、矛盾なく存在するものがある。

自分の認識がなければ、存在しない認識と、自分の認識がなくても存在すると仮定しても、矛盾なく存在する認識、私たちの認識を、今、大きく二つに分けてみる。

一つは、価値認識。

もう一つは、事実認識。

事実に関する認識は、私(つまりはすべての人・犬・猫含む、すべての認識空間)が、それを認識していてもいなくても存在すると仮定して矛盾なく成立するであろう認識であって、分かり易く「数学モデル」で例えると、実数の世界。

私たちの目の前には、実数濃度の数直線がたがいに垂直に3本交わった空間が広がっていて、原点を定め、長さに単位をつければ、位置や大きさが相対的となる。「相対的」と言うことは、比較が出来るということであり、だからこそ異なる私たちの認識空間で共有できるということである。

価値に関する認識は、私(つまりはすべての認識空間を持つ者)が、それを認識しなければ成立しない認識であって、例えるなら、虚数の世界。

ただ、普通の数学で扱う「虚数・i(アイ)」と違うのは、2乗しても-1になることが定義されていないということである。

自分の認識空間の中に、その認識は確かに存在する。しかし、自分以外の認識空間に(自分と同じように)おそらく存在すると思われる、おそらく同じような認識を、私が認識することは出来ない。異なった認識空間の間での価値認識は、比較・共有出来ないと言うことだ。相対的な実数数直線上に、位置を求めることは出来ない・・・ということ、つまり虚数である。

「痛い」と認識する。私の痛みは、他人には分からない。他人の痛みは、私には感じられない。ただ想像することが出来るのみ。脳内の痛覚中枢を電線で繋ぎでもしない限りは・・・、いや、例え物理的にどこかを繋いだとしても、繋いだ他人がぶつけた手の痛みを感じることは出来るかも知れないが、どの位痛かったかという比較は、別々の認識空間においては出来ない。

ただ、面白いことに、ひとり自分の認識空間においては、時に比較できることもあるようだ。

「この人より、あの人の方が好き」「この子より、あの子の方が美人だ」「昨日したことより、今日したことの方が良い行いだ」・・・誰もが自分の中では、価値判断に「上下」や「大小」をつけているので、あたかも他人とも共有できるかのような錯覚に陥っているかも知れないが、他の認識空間とは何も共有してはいない。

あるアイドルが好きでファンクラブに入る。「○○ちゃんは、可愛いね~」「ホント、たまらなくカワイイ」・・・何かの価値判断を共有しているかのように聞こえるが、共有しているのは「かわいい」という言葉のみ。どんな言葉を使っても、互いの「かわいい」は、共有できない。共通した一定の「(虚数)単位」があって初めて「比較」ということが出来るのだが、別の認識空間に共通の単位は存在しない。

さらに言えば、同一人であっても、例えば時間の経過によって、この「虚数単位」は変化しているようだ。あんなに「美味しい」と思ったものが、今はそうでもない・・・「もの」は同じ、食べているのも同じ私の口、判断しているのも同じ私の脳ミソ・・・なのに。

ある仲のいい夫婦がいて、子供が一人いる。二人は我が子をとても愛していた。

そこで問題です。我が子をより強く愛しているのは、夫でしょうか、妻でしょうか?

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