岩は、「ぴあ」を購読しているか、インターネットで検索しているのか解らないが、人間界で起きている、「岩」に対する情報を取得している。
どこで公演され、だれが出演し、係わっているのかを把握し、一方で彼らが自分を祭る場所へ挨拶しに来たのかどうかをチェックし、挨拶に来てないとなると、物理的な攻撃を企だて実行する。
これはもう、生きている人間と同じこと、と言うよりも、それ以上のことが出来るということになる。
挨拶ないことに、不快感を感じたり、攻撃しようとする故意、衝動も生きている人間そのものだ。
さらに、問題は、岩?幽霊は、死ぬの?
多分、死なないということになると思う。
幽霊が死ぬとなると、人が死んで幽霊、幽霊死ぬと何になる?・・・
という、ややこしい話が出てきてしまう。
「幽霊が死んだら、無になる。」というのであれば、人が死んだときに、とっとと無になればいいだけのことだ。
となってくると、大変な結論に達してしまう。
人間は、ガソリンを飲んでも、コンセントに指突っ込んでみても、エネルギー摂取は出来ない。ただ、他の生き物を殺して食べることによってのみ、エネルギーを得ることができる。これを「原罪」と呼ぼうがどうだろうが、「食」を否定することはできない。これを否定することは「生きる」ことを否定するに等しい。「菜食だから良い」という言い逃れはできない。大根は土から抜けば、死ぬ。
幽霊が「死なない」ということは、即ち「食べなくていい」ということである。幽霊が、生きている人間と同じか、あるいはそれ以上のことができるのに、食事はしなくて済むということなら、人が「原罪」を免れる方法が見つかったことになる。
「人は死んで幽霊になるべきだ。」
何らエネルギーを摂取しなくても、記憶を保持し、感情を持ち、体を動かし、物を動かすことができるという妄想を真に受けるのであれば・・・死んだほうが「いいね!」